幸福の分母
著者:ハンマー伊澤
概要
短篇小説集『幸福の分母』は、劇的な奇跡ではなく、見落とされがちな『小さな気配』をすくい上げる二篇を収めた静かな寓話集である。深夜の倉庫で働く警備員の男は、誰にも語らない孤独を抱えたまま、同じ夜を繰り返している。通知に追われる広告代理店の女は、繋がりの多さの中で、かえって誰とも繋がれない疲れを溜めていく。そんな二人の生活の隙間に、一匹の猫が、何気ない顔で入り込む。猫は何も約束しない。ただ、分母――日々を支える土台の揺れを、わずかに起こすだけだ。世界は変わらないのに、見え方だけが変わる夜がある。本書が描くのは、その変化の前兆であり、言葉にならない温度である。静けさの中で、自分の暮らしの輪郭を確かめたい人へ。
収録
- 幸福の分母
- 幸福の分子
試し読み
男は、深夜の警備員だった。 街の端にある配送センター。 昼間はトラックと人の声で埋め尽くされるその場所も、深夜になると別の世界のように静まり返る。 金属のシャッターは下ろされ、フォークリフトは並べて止められ、ベルトコンベアには何も流れていない。 蛍光灯だけが白く残り、コンクリートの床に長方形の光を落としていた。 男の仕事は、その“何もない時間”を見張ることだった。 時刻ごとに決められた巡回ルートを歩き、防火扉が閉まっているか、施錠に異常がないかを確認する。 誰かから声をかけられることはほとんどない。 始業の挨拶もなければ、退勤の見送りもない。 それは、男にとっては居心地のいい孤独だった。 昔、男には守りたいと思った人がいた。 だが、守ろうとしたその相手を、自分の拙さと短い怒りで傷つけてしまった。 あの日から、男の中で、人と関わることは「何かを壊す前段階」としてしか感じられなくなった。 近づけば、だいたい壊れる。 好かれれば、いずれ裏切る。 手を伸ばした先で、自分の指の方がよく折れる。 そんなふうに思い込んでから、男は、距離を取っていればとりあえず大きな傷はつかないだろう、と決めてしまった。 夜勤は、その意味でちょうどよかった。 幸福という言葉を、男はもう信じていなかった。 それでも、「何も起こらない一日が終わること」は、どこか安堵に似た感情があった。 男はそれを、自分なりの小さな幸福と思うようにしていた。 誰からも奪われない小さな幸福。 目を閉じればすぐに消えそうな、小さな灯火のようなものだった。 ◆ ある冬の夜、夜勤に出ようと男が自宅の玄関の鍵を回し、戸を引いたときだった。 一匹の猫が、そこにいた。